
スカリーは1985年3月にはアップルのトップに登りつめた。それから数カ月の間アップル社にはレイオフの嵐が吹き荒れ、その人数は1200人に上り、初めての赤字も計上した。このような方針やジョブスの退職によって、スカリーのAppleのSEOとしての信頼はゆらいだ。 Windows1.0はさまざまな面でMacのGUIと類似性があり、この頃スカリーはマイクロソフトのビル・ゲイツとのGUIに関する戦いに忙殺されていた。最終的にゲイツは、マイクロソフトWindows1.0では今後Macの技術を使わない、という声明を出した。しかし将来のWindowのバージョンについては何も触れられておらず、ゲイツ側の弁護士はその点を譲らなかった。 これによってアップルは、事実上インターフェースデザインの独占権を失う事になる。その後のアップル対マイクロソフトのWindowsインターフェース裁判でもこの文書が重要な役割を演じる。 この暗黒からMacを救い出したのはLaserWriterに関する二つの製品の登場だった。LaserWriterは初の手軽なポストスクリプト・レーザープリンターで、もう一つはPageMaker、最初のDTPソフトである。この組み合わせによってMacは安い金額で実現する印刷工程を確立し、再びMacは成功に導かれる。 1987年、アップル社は拡張性のあるマシン、Macintosh IIを発売した。Mac IIという新たなパワフルなマシンが登場したことにより、アップルは月に5万台のMacを製造する“ウォールストリートのアイドル”に返り咲いた。 1989年の時点で一般的には、Windowsは失敗作であり、Macは今後10年間成長するだろう、と予測されていた。 しかし予測は裏切られた。1990年、市場にはPCのクローンマシンが浸透するかたわら、アップルは唯一のMacを製造するメーカーとして孤立した。3月の末にMicrosoftはWindows 3.0を発売した。あらゆるメーカーのPCクローンでも動くソフトである。アップルにとって厄介な問題だった。 アップルのトップはMac OSをライセンスするという対策を考えた。これはMacの品質を落とす事になるのか、それともさらに競争が激化するのか。しかし、アップルがハードウエアとソフトウエアの両方を製造して会社を運営する事が不可能だということは明らかだった。Mac OSをIntelプロセッサーのマシンに移植する事も検討された。 アップルの新CEOであるマイケル・スピンドラーは両方の意見を聞いた上で、ライセンスを発行するには遅すぎる、という結論に達した。 1991年の末、アップルは初代PowerBookを発売し、これはすぐに成功した。新世代のコンピュータ開発事業も始まった。PDA(個人情報端末)である、アップルはこれをNewtonと名付けた。スカリーはすぐにNewtonを気に入った。Newtonが完成したのは1993年である。最初のNewtonは手書き文字の認識がお粗末で、大きくは受け入れられなかった。 スカリーは日に日にアップルを操縦していく事に興味を失っていった。アップルの役員会もこの人物がその役に適してないと判断し、1993年の1月にスカリーはCEOを解任され、スピンドラーがその椅子に座った。スカリーはその後数カ月会長として留まった後、アップルから去った。 |
